稲荷神社

いつ誰によって創始されたか詳らかではないが、その歴史は古く大崎市古川千手寺町の旧市民病院が建てられていた辺り一帯にかつて、米屋製糸という会社の工場がありました。
明治二十八年の創立で、関東以北では最大規模のものと言われていました。「女工哀史」や「野麦峠」にあるような暗いイメージの工場とは違い、「仕事のしやすい楽しい職場だった。」と当時の女工さんたちは証言しています。しかし、世界大恐慌のあおりをうけ、日中戦争が始まった昭和十三年に工場を閉鎖することが決まり、それに伴い敷地が処分されることになりました。この時、工場の敷地の片隅にあった、やしろも移転することになりました。
やしろは馬車の荷台に乗せ現在の古川神社まで運ぶことになりました。移転の日が来て仕事師が呼ばれ、この人が馬を引き神社に向かったのですが、しばらく行くと突然馬がいななき、そのまま動かなくなってしまいました。どうしたものかと思い仕事師が荷台から降りてみると、道のわきの草むらから白い蛇が姿を現し、すぐにまた姿をくらましました。やしろを無事届けた仕事師は、胸騒ぎがして急ぎ家に帰ってみると、子息が病気になっていました。同じころ、移転にかかわったおばあさんの孫も病気に悩まされるようになったのでした。何かのたたりかも知れないと思った仕事師たちは、祈祷師を呼んでおはらいをしてもらった結果、やしろは移したものの、肝心の御神体を移し忘れていたことが わかりました。御神体は白ヘビ と弁天様の像で大きさは二寸ほどあまりに小さいため、移転の際に取り出し建物の二階に置いたままになっていたのでした。一同は御神体に詫び、手厚く供養したところ、子息や孫の病気は快方に向かったといいます。やしろを移したその年、やしろ裏手の林に白い藤の花が咲き人々を驚かせたと 伝えられていますが、それを見た人たちも今は故人となっています。そのやしろは、現在でも古川神社の境内に鎮座され崇敬されています。